女神のコレクション(中編)

MTS


この話は、一部に残酷な描写を含んでいますのでご注意ください。


 2.消え逝く星達

 水星が宇宙から消滅する光景を、地球に居る赤池は望遠鏡で眺めていた。
 裕福な彼の家は、地上を離れ、地球の内部に広がる施設へと避難している。
 そこから、彼は太陽系にやってきた巨人達の様子を見ていた。
 それは、幼い少女に見えた。
 星を1つ、おいしそうに飲み込んでしまった巨人の体は女に見えたが、まだ、胸も大きくなっていないのだ。
 身体に何も纏わない優雅な姿で、彼女は日本列島程の太さをした、細い金色の髪の毛をなびかせている。
 髪の根元で結んだツインテールが、風の無い宇宙空間で、彼女の動きに合わせて静かに流れていた。
 今年で11歳(神年齢)になる、『平和』の女神、エイレーネーである。
 太陽に一番近い星…水星は、彼女のおやつとして、一瞬のうちに飲み込まれてしまった。
 しかも、地球圏を守るはずの数万隻の宇宙艦隊も、彼女の手のひらで、蚊のように叩き潰されてしまった。
 もう、人類には彼女に抵抗する手段が無い。もっとも、例え数万隻の宇宙艦隊が数百万隻居たとしても、何の抵抗にもならなかったかもしれないが…
 そうして、ごく当たり前の様に宇宙艦隊を壊滅させ、水星を食べてしまった少女の大きさと行動に、赤池は見入っていた。
 彼女は幼い少女のように見えるが、星よりも大きな巨人なのだ。とても人類の力が及ぶはずがない。その事を、すでに赤池を含む全ての地球人が理解している。
 さらに恐ろしい事に、彼女は1人ではない。
 幼い巨人の少女の他にも、もう二人、巨人の少女達が居るのだ。
 そして、その二人の大きさは、水星を飲み込んだ少女よりもさらに大きかった…
 赤池は凍りついたように、望遠鏡から目が離せない。
 もちろん、エイレーネーを含む女神達は、地球に張り付いている有機物が自分達を見上げている事など気づきもしない。楽しい、息抜きのバカンスを続けている。
 「あー、だめだよ、お姉ちゃん!
 『金星』も、レーネの星だよぉ」
 エイレーネーが、次の星に手を伸ばそうとしていた姉に文句を言った。
 女神同士の話し合いの結果、金星も末妹のエイレーネーの所有物と決まっているのだ。
 「あ、ご、ごめんなぁ?
  レーネちゃん見てたら、羨ましくて、つい手が出ちゃったよ」
 長姉の『正義の女神』アストレイアーが、悪戯っぽく妹に微笑んだ。
 アストレイアーは三柱の女神の長姉だったが、そうやって悪戯っぽく笑う表情は末妹と大差が無い。金色の髪も短めにカットしていて、19歳(神年齢)にしては幼い印象だ。
 むしろ、次女の『秩序の女神』エウノミアーの方が大人びている位だ。
 「もぅ…お姉ちゃん、約束は、ちゃんと守らないとだめ!」
 エイレーネーが悪戯っ子のような姉に文句を言いながら、細い指先を金星に伸ばした。
 先程、彼女が飴玉のように飲み込んだ水星に比べると、金星は直径が四倍程あり、結構大きい。
 これなら、エイレーネーにとっても、少しは食べがいがある。
 直径12万キロ程の星は、エイレーネーにとっては直径1.5センチ程の小石のようなものだ。
 「わー、綺麗…」
 エイレーネーは手のひらの上に金星を乗せ、人差し指で押し付けて固定してから観察してみる。
 金星を覆う大気は、太陽の光と女神達の体から溢れる神気の光を跳ね返し、その名の通りに金色に光っていた。
 でも、エイレーネーが少しだけ細い指に力を入れすぎたから、その表面にいくつもの亀裂が走ってしまう。
 長さがほんの数キロ程度の亀裂だったので、エイレーネーには細くて見えなかったが、もう少し彼女が力を入れていたら、金星を指で潰してしまうところだった…
 「綺麗だ。
  レーネの髪と同じ色をしているね」
 エウノミアーも金星の美しさを認める。
 「ほんとに綺麗だよね。レーネ、嬉しいな。
  …それじゃ、早速、食べてみるね!」
 ああ…何て綺麗な星だろう?
 光を反射して、絶妙な色に輝く金星をエイレーネーは美しく思った。
 こんなに綺麗な星を、おやつに出来る事を幸せに思う。
 エイレーネーは、金星の輝きに心を奪われ、うっとりと見つめながら、それをゆっくりと口に入れた。
 やっぱり、おやつにするなら、綺麗な星がいい。
 エイレーネーは幸せだ。
 まず、舌で舐めてみる。
 「うにゃうにゃ。
  きんしぇいも、あったきゃいなぁ…」
 口の中に金星をほお張ったまま、エイレーネーは言う。
 その周囲を覆う大気の温室効果の為、400度〜500度程の熱を持った金星は、女神にとっては、口に入れると、ほのかな温かさを感じるものだった。
 だが、閉ざされた女神の口の中では、金星を照らす光も無く、すでに金星は輝きを失っている。
 金色の輝きを失った金星は、もはや単なる石ころ同然だった。
 エイレーネーは、それを舌で弄び、口の中を転がした。
 金星の表面を覆う岩石が、エイレーネーの舌で舐められる度に削られ、溶けていく。
 高さが1万メートル程ある山も金星には存在したが、エイレーネーの舌にとっては、厚みを感じる程の厚さではない。
 「やわらきゃくて、おいしぃにゃあ!」
 金星を象っている分厚い岩盤も、女神の前では飴と大差無い。
 このまま、ゆっくりと舐め尽しても良い。
 でも、それは少し時間がかかってしまう。
 せっかちな幼い女神は、金星を舌で弄びながら、奥歯の上に乗せた。
 迷わず、その上の歯を下ろした。
 金星が、幼い女神の奥歯に挟まれて、一瞬だけ、ギシギシと泣いているような悲鳴を上げた。
 でも、それは、本当に一瞬の事である。
 次の瞬間、砂粒のように、エイレーネーの口の中で金星は砕け散った。
 何億年もの間、星を構成していた堅い岩盤も、女神にとってはチョコレートのように甘くて柔らかかった。
 何回か噛んだ後、エイレーネーは金星の欠片を一息に飲み込んだ。
 そうして、二つ目の星が、太陽系から消えた。
 幼い少女が金星もあっさり飲み込んでしまったのを、地球の赤池は見ていた。
 あんな、小学生みたいな子が星を食べてしまうなんて…
 何かの映画でも見ているような、そんな気分になってきた。
 でも、これは現実なのだ。
 惑星を飲み込める程の巨人の少女が、太陽系にやってきて、水星と金星を飲み込んでしまったのだ。
 かろうじて、赤池は現実を直視する。
 水星…金星…
 飲み込まれた星達。
 待てよ? 太陽系にある星の中で、次に太陽に近い星はなんだ?
 巨人の少女達が繰り広げている天体ショーをのんびりと見ている場合ではない。
 彼女達が繰り広げるショーの中に、今、自分が立っている地球も含まれているに違いないのだ。
 水星…金星…
 そう、次は、多分、地球の番だ。
 宇宙空間で、楽しそうにおしゃべりするように動いている少女の唇。それが開けば、地球を飲み込む事も容易いだろう。
 彼女達の壮大さに微かな魅力を感じていた赤池だが、その口の中に飲み込まれる事を考えると、膝がガクガクと震えてしまった。
 地球人が感じている恐怖を、女神達は知る由も無い。
 「なぁ、2人とも知ってるか?」
 正義の女神は2人の妹に問いかける。
 「この『宇宙』って世界の神によるとな、もしかしたら地球に付着してる有機物の群れわな、それぞれ意識を持った、知的生命体かも知れないんだってよぉ?」
 お化けの話でも聞かせるように、思わせぶりに妹達に言ってみる。
 地球に付着しているちっぽけな有機物が知的生命体などという事を、彼女自身は全く信じていない。馬鹿馬鹿しい話だ。
 「まさか…
  確かに有機物だから生命体なのかもしれないが、幾らなんでも、あの小さな物体に知能などあるはずがない。
  所詮、あれらは星の表面に張り付いた、ただの汚れのようなものに決まっている」
 エウノミアーは、顔色1つ変えずに、姉の冗談を笑い飛ばした。
 「あはは、そうだよ。
  こんなの、カビと一緒だよね。
  …でも、もし、このちっちゃな有機物達が、全部、ちゃんとした生き物だったら面白いねー」
 エイレーネーも笑い飛ばしたが、少し想像してしまった。
 地球の表面に張り付いている小さな有機物の群れが、もしも知的生命体だったら、もし、これが数十億もの知的生命体だったらと…
 数十億もの命が、自分の手の上に乗る事になるのだ。
 エイレーネーは女神だけど子供だから、少し胸が震えてしまった。
 「なぁ、面白いでしょ?」
 「うん!」
 アストレイアーとエイレーネーは、面白そうに地球を見つめた。
 その上に数十億もの命が存在したらと、創造してしまう。
 「よーし、地球の有機物達!
  私達は女神様だよ!」
 唐突に、エイレーネーが頬を膨らませて、地球を指差した。
 そういう遊びをしようと思った。
 「えへへ、私たちは、本当は、こんなちっちゃな宇宙よりも大きくて強いんだよ?
  でも、レーネちゃんは優しいから、君達が良い子にしたら、ちっちゃな君達の事も大切にしてあげてもいいの」
 この世界の法則とは違う法則で話すエイレーネーの言葉は地球には届かない。
 「えへへ、私、とっても優しいでしょ?」
 先程、地球圏の宇宙艦隊を一撃で壊滅させた少女は、自分の優しさを主張する。
 「さあ、今すぐ、みんなで跪いてレーネ達に挨拶するんだよ?」
 「あはは、そうやねぇ。
  女神様には、ちゃんと挨拶しないとなぁ?
  んふぅ…女神様を怒らせると、大変な事になるよぉ?
  …ていうか、有機物君たち? ちゃんと聞いてるかぁ!」
 アストレイアーも一緒になって、地球に呼びかける。
 神の力で話しているアストレイアーとエイレーネーの声を、地球上の生物は聞く事すら出来ない。
 もっとも、聞こえたからと言っても返事をする事も出来ないが…
 「ねえ、お姉ちゃん、この有機物たち生意気だよぉ!
  私達の事無視してる!」
 わざとらしく姉に向かって言う、妹。
 「んー、レーネ、ちょっと罰でも与えてやったらどうかねぇ?
  このちっちゃな有機物君達になぁ!」
 そう言って、女神達は二人で笑い転げた。
 もしも、無力な有機物達が知的生命体だったら?
 そういう仮定で、宇宙に浮かぶ小さな青い石ころを相手に、もしも遊びをする2人の女神。
 その結論は、地球に神罰を下す事と、最初から決まっていた。
 それが仮定でなく現実である事など考えもしない…
 「もぅ、生意気な有機物ね!
  君達なんか、レーネがまとめて、ふーふーしちゃうよ!
  謝っても遅いんだからね!」
 地球に呼びかけながら、エイレーネーは口を近づける。
 「うわぁ!食べないでくれ!」
 宇宙から迫る、幼い女神の唇を見て、赤池は恐怖で叫んでしまった。
 地球は金星と同じ位の大きさなのだ!
 つまりは、エイレーネーが飴玉にするのに丁度良い大きさという事である。
 彼の声は、女神達の耳には届かない。
 「あー、それとも、まさかレーネ達と戦うつもりなの?」
 青い石ころに向かって、エイレーネーは一人遊びを続けていた。
 「君達がどんなに頑張ったって、レーネ達に勝てるわけないよ? 
  だって、レーネ達は、こんなに大きな女神様だけど、君達は、ただの有機物なんだもん」
 すでに地球圏の宇宙艦隊は、レーネによって壊滅しているわけだが…
 「よぉし!
  レーネ達の事を無視するんだね?
  いいもん。レーネの言う通りにしない子は、悪い子だもんね!
  みんな、まとめて吹き飛ばしちゃうよ!」
 『平和』の女神は、真空の宇宙空間で小さく息を吸い込んだ。
 それから、吸い込んだ真空を、優しく地球に吹き付けた。
 幼い女神の息吹が、宇宙から地球に降り注いだ。
 地球を覆い、紫外線や放射線等、宇宙から飛んでくる様々な物から地球の環境を守っているオゾン層や各層も、エイレーネーの息の前には無力だった。
 まず、地球の軌道が変わった。
 太陽の重力によって、その周りを1年かけて回っていた地球は、エイレーネーの小さな息でクルクルと回りながら、軌道を離れて吹き飛ばされた。
 今までは、一日かけて一回転して、太陽との角度によって昼と夜が生まれていた地球の環境も変わってしまった。
 もちろん、地球を覆っていた大気もエイレーネーの息で吹き飛ばされてしまう。
 地球が地球である事を維持していた環境が、消えてしまった。
 それを覆う大気が生み出していた温暖化効果が無くなってしまったので、太陽からも離れた地球は、瞬く間に凍り付いてしまった。
 もう、地球の表面は、生物が住める場所では無い。
 女神が一息で地球を死の星にするのに、10秒もかからなかった。
 それから、エイレーネーの優しい息は地球の表面を流れて、そこにあったものを全て吹き飛ばしていく。
 有機物…人間…だろうと、高い山だろうと、女神の息吹の前には区別は無い。
 全てが平等に、エイレーネーの一吹きで吹き飛ばされた。
 赤池の家族を含む、地下に逃げるだけの地位と財力を持った人間だけが、かろうじて地面の下で生き残っていた。
 ぐるぐる回る地球。
 その地下に居る赤池は、もう、さすがに望遠鏡で女神の姿を見る事も出来なくなった。
 「ほーれ、こんなもんで許してもらえるなんて甘いんじゃないかね?
  お仕置きする女神は、レーネ1人じゃないよぉ?」
 地球が飛ばされる方向に回りこんだアストライアーは、末妹の真似をして地球に息を吹きかけた。
 彼女の息の勢いは、妹よりも強い。
 地球は、今度は太陽の方に向かって吹き飛ばされた。
 「えへへ、私達の言う事を聞かなかった罰だよね!」
 「あはは、当然やなぁ!」
 地球に息を吹きかけ、風船のように飛ばして楽しむ女神達。
 もはや、地球は生命と水の星ではなく、ただの石ころ…もしくは、女神の玩具に過ぎない。
 だが、太陽の方へと向かって飛ぶ地球の前に、三柱の女神の最後の1人が立ちはだかった。
 「姉さんもレーネも、いい加減にしなさい!」
 地球を玩具にして弄ぶ姉と妹を叱るように、少し強い口調で言いながら、可愛そうな地球を手のひらで受け止めた。
 「これは、私の玩具だ。
  コレクションにするんだから、こんな風に扱われたら困る」
 大事な玩具を見る目で、エウノミアーは地球に目をやった。
 「ご、ごめんなぁ、ミアー…」
 「ごめんなさい、お姉ちゃん…」
 『秩序』を司る、エウノミアーの激しい剣幕。
 彼女の姉と妹は、素直にエウノミアーに謝った。
 エウノミアーは、もう一度地球を見る。
 それは凍り付いて、その輝きを失っている。
 エイレーネーの一吹きで環境を破壊されつくしてしまった星は、見る影も無かった。
 「全く…
  汚れきっている星とはいえ、この星の青さに魅かれたのだぞ、私は…」
 エウノミアーは不満そうに言うと、地球に手をかざす。
 その周りが、見えないバリアーのような物に覆われた。
 すると、地球が青い輝きを取り戻していく。
 「おー、ミアーちゃんの創造の魔法はさすがやなぁ?」
 「すごいねー!」
 姉と妹が感動している。
 「この星の構造は、『宇宙』の神にもらった説明書に書いてある。
  復元させるだけなら、簡単だ。
  …とにかく、これは私の物よ?
  後で、ゆっくり楽しむんだから、姉さん達は手を触れるな」
 にこりともせず、エウノミアーは言った。
 他の2柱の女神達は、調子に乗りすぎた事をエウノミアーに謝る。
 「もう、いい。
  それより、先に他の星で楽しもう…」
 優しいエウノミアーは、バリアーで包んだ地球を胸に抱いたまま、他の二柱の女神の罪を許した。
 …これは、私のコレクション。
 後で楽しむんだ。
 青さを取り戻す星を見て、エウノミアーが微かに笑った。
 その後は持って帰って、ずっとずっと楽しむんだ…あはは…ずっと…ずっと…
 人には見せられない、狂気を帯びた含み笑い。
 それは、彼女の姉も妹も知らない、エウノミアーの本質の1つでもあった。
 それから、三柱の女神は火星へとやってきた。
 「じゃあ、次の『火星』もレーネの星だね?
  …ごめんね、レーネばっかり楽しんで」
 レーネは、すまなそうに言うが、それでも速度を落とす事無く火星に近づいていく。
 姉達は、幼い妹を見て微笑んだ。
 彼女達の前に佇む、小さな星…火星。
 それは、炎のように赤かった。
 だが、実際は水星や金星程に熱い星ではなく、少し加工すれば生命が存在出来るかもしれない環境の星であった。
 現に、人類は火星の環境構築に成功し、何十億人かの人類が火星に移住しているわけなのだが…
 「…あれ?気のせいかな?」
 火星を覗き込んだレーネが首を傾げた。
 宇宙から見下ろす巨大な少女の顔が、火星に居住していた人類をパニックに陥れた。
 この幼い少女の巨人が、宇宙艦隊を壊滅させた事を火星の人類も、もちろん知っている。
 「なんか、有機物が付着してない?」
 カビのように小さなものが、赤い石ころの表面に付着している。
 火星を覗き込んだレーネは、人類の存在に気づいた。
 「珍しい…
  『地球』の有機物が、そっちまで飛んで付着したんだな。
  …良かったね、レーネ」
 先程は妹を叱ったエウノミアーだが、もう機嫌を直したようで、妹に優しい微笑みを見せる。
 「うん、嬉しいなぁ…」
 レーネの満面の笑み。
 火星の人類は、呆気に取られて見とれてしまう。
 太陽程に大きな巨人で、宇宙艦隊を平手一発で壊滅させてしまった女の子だが、その笑顔は悪意の無い、幼い女の子の笑顔にしか見えない。
 その、幼いが魅力的な笑顔が、段々と近づいてきた。
 笑顔のまま、ゆっくりと、その口が開いていく。
 火星に、更なるパニックが訪れた。
 空がエイレーネーの口で覆われていく事に気づいた人類は、火星の上を走り回って逃げようとした。
 だが、彼らは、どこへ逃げようというのだろう?
 エイレーネーの白い歯の間を潜って、火星は彼女の口の中へ入る。
 どこまで逃げても…
 どこで空を見上げても…
 火星の人類の頭上に広がるのはエイレーネーの口の中だけだ。
 数十億の人類を乗せた赤い星は、幼い女神の口の中を漂う。
 やがて、火星の表面をすっぽりと包む事が出来る、エイレーネーの舌が火星に近づいた。
 彼女の舌から零れ落ちた唾液が、火星の僅かな重力に引かれ、大気を貫いて地表に温かい巨大な湖を作った。
 エイレーネーは軽く、火星の表面積の半分ほどを舐めてみる。
 すると、一瞬、エイレーネーの体が硬直した。
 次に、彼女の体が震えだした。
 彼女の顔色が変わるのを姉達は見た。
 有機物を舐めたエイレーネーは、あわてて舌を使って、火星を口の外へと押し出してしまう。
 女神の唾液にまみれた星が、宇宙空間に放り出された。
 「うぁあぁぁぁ!」
 悲鳴にも似た、エイレーネーの声。
 「ど、どしたぁ?」
 「大丈夫か?」
 2人の姉が左右から彼女に寄り添う。
 もしかして、この有機物は毒だったのだろうか?
 「とっても美味しいぃぃぃ!
  お姉ちゃん!有機物付きの星、凄く美味しいよ!
  なんか、こう、沢山の命が口の中で弾けて消えるみたいだよ!?」
 まだ、エイレーネーは震えていた。
 一度食べたら、やめられない。
 何十億もの人の魂を乗せた星は、そういう味だった。
 大げさに喜ぶ妹に、姉達は拍子抜けしながらも安堵した。
 「ねえ、お姉ちゃん達、一緒に舐めちゃおうよ!
  とっても美味しいよ!」
 エイレーネーは、目を輝かせていった。
 そんなに美味しいんだったら…
 姉達は、妹の言葉を受け入れる事にした。
 三柱の女神は、数十億の人類が移住して『有機物付き』となっている火星を、仲良く舐めてみる事に決めた。
 火星を取り囲んで、3人で一緒に、仲良く顔を近づける。女神達の頬が、星を囲んで触れ合った。
 エイレーネーの唾液まみれになりながらも、わずかに生き残っていた火星の人類だったが、もう逃げるのをやめた。
 彼らが居る位置によって、空を見上げると違う女神の姿が見えた。
 『正義』
 『秩序』
 『平和』
 それぞれを司る女神の舌が、それぞれの角度から優しく火星に降りて来た。
 空を見上げれば、誰かが居る。いずれかの女神の舌が見えるのだ。
 女神達の舌が、火星の地表に触れた。
 その直径よりも幅が広い彼女達の舌は、その大地を飴でも舐めるように滑っていく。
 火星の大地は女神の舌に張り付き、大気圏外まで巻き上げられ、その上に居る人類ごと彼女達の口の中へと消えていった。
 女神達が3回も舐めると、地表の人類は絶滅した。
 それから、地下に居た人類も徐々に舐め取られて、女神達のご馳走になっていった。
 あまりの有機物の美味しさに、我を忘れて女神達は火星を舐め続けた。
 お互いの舌が絡み合い、圧倒的な自分達の力が火星の大地を削っていくのを感じる。
 火星が完全に舐め尽されて消滅した後も、美味しさに我を忘れた女神達は、しばらく、お互いの舌を舐めあってた。
 「あー、やめやめ!もう、火星ないわぁ!
  姉妹でいつまでもキスして、どうする?」
 最初に気づいたのは、長姉のアストレイアーだった。
 「…あ」
 「ほんとだ、無いや…」
 妹達も正気に戻った。
 有機物…人類…が付属していた火星は、女神達にとっては思わぬご馳走になった。
 そうして、火星も宇宙から姿を消した。
 数十億の人類を飲み込んだ女神達は、その味の余韻に、しばらく浸っていた。
 だが、太陽系には、まだまだ星が残っている。
 「さてさて、残ってる星は、私の星ばっかりやねぇ?」
 アストレイアーが、舌なめずりをしながら言った。
 これからは、自分が楽しむ番だと言いたそうだ。
 火星の次にあるのは、木星である。
 太陽になり損ねた星とも言われる、大きな星だ。
 その大きさは、女神の顔ほどもある巨大な星である。
 どうやって木星で遊ぶか、アストレイアーは今から楽しみだった…
 

 (後編へ続きます)